昭和44年09月28日 朝の御理解



 御理解 第36節
 「日本国中のあらゆる神を、みな信心すると言うが、それはあまりの信心じゃ。人に物を頼むにも、一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば、相談に暮れて物事はかどらず。大工を雇うても、棟梁がなければならぬ。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受けられる。」

 神信心もこの一心を出すとすぐおかげが受けられる。これはどういうような自分はもう金光様一本。改式もしたいわゆるもう一にも神様二にも神様である。いわゆるこの方一心といわれるそのもう金光教一本と。けれどもすぐにおかげが受けられるという事になっていない。ね、そこに私はやはり練らな、練りあうというかね、教祖様が嘘を教えておられるはずはないのでございますから。
 どこにすぐにおかげの受けられん元があるかという事を一つ本気で練ってみるという、研究してみなければいかんと思うのですよね。ある病人さんがもう医者もさじを投げるというほどしの大病である。その病人があちらの仏様、こちらの神様とという風に、あちらこちらに拝む。願を立ててお願いをしておったという事ですね。ある旅人が山中を旅しております時に、疲れが出たのでっとその途中で休んでいつの間にかうとうととこう休む、眠りに入った。
 もう自分で眠ったとも思っておったけ、思ってなかったけれども、やはりうとうと眠っておる時にすぐ側で何か知らん、そのいろんな話し声がする。その様な中で聞くともなしに聞いておると、私はどこどこの何々という神である、私は何々という仏であるという、仏様や神様が幾人もその、なんかがやがや話し合いをしておられる。そして話しておられることは、まあ皆さんどこにおいでられますかというと。
 どこどこ村の何々という地に、もう医者もさじを投げて助からんと、どうぞあなたにう、お願いしますどうぞ助けて下さいというから、今から助けに行こうと思うて行きよるところじゃという。ところがその仏様や神様が、あなたもそうですか。実は私もそうなんだけれど。というて、ま、仏様やら神様が力を合わせて、そんなら行こうかと言われりゃあ問題なかったんですけれども、な、あなたがおいでられるなら私は遠慮しましょうというて、誰も行かじゃったという。というような話し合いをね、その旅人が聞いたという話を聞いたことが私はありますけれども、いやあ、そんなもんだと思うんですね。
 この方一心と、ね、大工でも棟梁というたら、ね、一人。何人も棟梁がおりますと、も、それこそ、物事相談にくれてはかどらずという事になります。ね、ですからまず、そこの、ところの腹が決まらなきゃならん。そこで信心、やはり、もう金光様一本、いわば金光様ファンです。ね。ところがその、一にもか、金光様、二にも金光様と金光様のいわばファンになるということだけ、金光様一本に、絞って信心するという事だけではなさそうです。それも大事だ、ね。
 北野の、あの、堤さんなんかね、あの、奥さんが大病されて、それこそ医者も薬も、または、あの時分はどっか大学様ですかね、お稲荷様に、高良山の裏にあるそうですが、もう御滝の水を頂いては寒中にご主人が一心不乱に願われた。だいたいが、おね、お稲荷様の、どっか本部、あちらの方にある総代まで長年しておられた。ところが、なかなかよく、もう私はあちらへ参りましてからビックリしました事は、非常にやっぱり信心家ですね。もうこの、自分の家の宮前には、はあどこどこの、お稲荷様、お大師様ちゅうようなものがもういっぱい大きなコンクリートで御社を作ったり、その、御像がもうお祭してあったりして、家ん中は家ん中でもちろん、大神宮様から荒神様、もう観音様というのをいろいろ、あらゆる仏様、神様に取り巻かれてござる。
 いわゆる世間の人は堤さんはなかなか信心深い、信心の厚い人じゃということであった。その堤さんが金光様の御信心の導きを頂かれて、お話を聞けば聞くだけ、もうこりゃこの神様におすがりするほかにないと腹決められた。そこでその仏様神様を全部取り払うと、といわれるので私が参りましてね、全部仏様神様に、私がその、御祈念させて頂いた。それからもうそれこそただこうやって、それこそコンクリートでもうそれこそ大変な事だ、全部それをすっきり取り払われてしもうて金光様一本になられました。
 そしてここでだんだん熱心に信心の稽古を、一家中、一家を挙げて、金光様、一心にすがって、おかげで、さしものその、お母さんですね、を、いわゆる今のお婆ちゃんの病気が治った。以来一生が金光様、一心にすがって、おかげを受けられた。ね、ですからやはりそのくらいな、あの、一つの填まりというものが、やはり一つの一心というのでしょうね。けれどもその、それだけではない。それは、やはり改式させて頂いて、お道の教徒にならせてもらう。ね、この改式をして金光様に、生きても死んでもあなたに、お任せするという生き方にならせてもらう、いわゆる教徒である。ね、ただ信心をしておるというのを信徒とこう申します。
 だから教徒になった人はたくさんある。ね、金光様一本。からと言うて、いわゆるすぐにおかげが受けられるということには、なっていない。ここで思わなければならぬことは、神信心も、この一心を出すとすぐにおかげが受けられるという事である。神信心もこの一心を出すとすぐにおかげが受けられる。ね、だからこの神信心をいう事はどういう事かというと、ただおかげを頂くために一心にお参りをしておりますというて、一心を立てた、あなたよりほかに頼む人はありませんというて頼んだ。どこここにも、拝みも効きなさるというところにはどこにも頼んだけれど、ね、はかばかしくないから、もうあなた一心に決めたと。
 というてその、おー、金光様一本にならせて頂いておかげを受けると、なるほど、そういう事実もいくらも今堤さんの例を申しますように、ございますけれども、それでも、それからの事である。ね、それは確かに今まで、まあ、あらゆる神様を、なら、堤さんという、それこそ日本国中のあらゆる神々様をです、ね、朝起きたらもうそれこそ、みんな、お勤めをするだけでも大変な事。もう忙しかときには、ポンポンポンポン手を打ってからグリグリッと自分で回ってから、もう日本中の神様を、八百万の神々様を拝んだつもりで、まあ信心し、はあいっちょ信心がなかなか信心家じゃという風に、一角の信心家になっておるけれども、それでおかげは受けられん。
 そこで、なら改式でもさせて頂いてこの方一心と定めさせて頂くというところからです、確かにすぐにおかげが受けられるというようなおかげを受けますけれども、それからの事なんだ、問題は。だからそこにはたいへんな勇気というか、その信頼心とでもいうか、そういうものがそこにできるから、そこに一心がたつからおかげを受けるわけなんです。からといって、それからのこと。それはそんなわけにはいかん。ね、改式した、その一心にておかげを確かに受けるけれども、それだけでいいっていうのじゃあない。それからが神信心なんだ。
 あちらにも頼み、こちらにも頼みよったけれども、あちらもこちらも断って、もうあなた一人、一心にお願いしますというその一心になった時に、確かにおかげを受けておりますけれども、そういう一心がです、神信心に向けられなきゃならないそれからは。それからただ、もう家は金光様一家であり、もう金光様金光様だから、というてそのただ金光様ファンになっただけではいけん。そこからが神信心もこの一心を出すとと仰るその本当の、今度は神信心に一心を出さなければ、すぐにおかげが受けられるという事ではない。あん時あげな信心しておかげを受けたから、今度もあん時と同じような信心したらよかろうという事は決してない。
 あの時にはああいう信心でおかげを受けたけれども、この時にはという時にはもうそれだけ神信心が進んでおらなければならん。神様の願いはそれなのだから。信心が進むという事、信心が成長しておるという事が、していくという事が、神様の願いなのですから。決して意地悪におかげをやりなさらんとじゃあない。それこそ這えば立てであり、立てば歩めである。それが親心なんだね。ですから絶えずその信心の成長というものが、その願われる。おかげを頂かなきゃならんのに、何時までたっても、あん時にあげな信心でおかげを頂いたというそのおかげの夢ばかりを追うような信心。所謂おかげをおかげをという信心。いわゆる神信心ではなくておかげ信心になってしまう。
 昨日、むつやの信司さんがお参りをしてきて、まあいろいろ信心話をその、午後夕方、私が4時の御祈念に参ってきとりましたから、御祈念終わってから二人でいろいろ話させていただいた。本当に自分ながら信心が、あのだんだんこの、ごしお育てのおかげを頂いておるという事を、このお祭りたんびんに、霊祭たんびんに、何かのある事のたんびんに自分で感ずるという。私は昨日初めてあの人の話を、まあ1時間ぐらい聞きましたが、なかなか雄弁。いつの間にこの人は、しかもその信心の事に限っては実に素晴らしい話をする。自分の信心の過程というものを話す。そしてもうそのポイントを付いた話。
 この頃その、神様に向かわせていただくと、昨日なんかは、とお知らせを頂いた。もう的確にお知らせを頂く。様々な問題、様々な難儀は、店の中にも自分の一身上の上にもいろいろある。けれども一心におすがりしお願いさせていただいておるとですね、神様がお知らせを下さるね。もうそれが実に見事なお知らせであった。その神様から直接お知らせを頂くもんですから、今までここにあった不安が一辺にすっと飛んでしまう。一心を立てるとすぐにおかげが受けられるというのはこれだと私は思うです。自分の信心の成長というのも自分で分かるぐらいにはっきり頂きよる。
 先生もう最近の、もう一番有り難、有り難いのは、先日の月次祭のときに、あの、人は人中、木は木中というあの御理解を頂いた時に、もう私の心の中に、もう素晴らしい。もう例えばこれだという風にまあ頂いておる。それ以来、人間関係の上に非常におかげを受けておる話をしておりましたが。また今度の霊祭の時なんかは、もう泣くまいと思うても、もうそれこそ次から次とです、ね、その、感激の涙をこぼすなんてもう、まだ、26、7、の青年がですね、と、ところが実際にもう限りなくあふれてくるように、その、涙が流れてくる。
 ですからもう、涙が流れるだけ流そうと、それが何とも言えん喜びの涙、これが御霊様に通いよらんばずがない、神様に通いよらんはずがないと思われるほどしの感動。今度の御霊様のお祭はたびたびの事ですけれども、今までで最高の、御霊様のお喜びいただいたような感じのお祭でしたと。すぐにおかげが受けられる。それはどういう事か。自分でも言っておる、自分の信心の成長というものがです、自分でも感じられるというね。その成長をですね、促してくださったのが親先生だと。
 それこそ毎日のように様々な問題を御結界に持ってくる。時々、人間関係なんかまだ、27ぐらいの社長さんですからね、やはりあれだけいろいろ御商売のおかげも頂いとりますし、番頭さん達の方がもうおっちゃんたちばっかりですからね、はあ難しかろうと思うんです。けれどもその、若木というんですかね、その若いその、考え方といったようなものが、やはりまあ、若い若いというような風にその、まあ言うなら周囲の方達に見られたり言われたりするのが、まあ負けてなるかといったようなものがやっぱある。
 もう残念な事は先生、同じく呉服屋さんですからね、呉服を買いにきなさると。その、もう年取った昔からおります番頭さんが、あのお客さんに、進めておる。この柄がいいですよっちゅってから。ほで若大将はどげんでしょうか。あなたはどれが、どっちがいいですかと言って、まあ両方の肩に反物をかける。そうすっと、自分で勉強した、自分の感覚で、こりゃあこちらがいいですよとこう言う、信司さんが。結局対立するわけである。そうすっと、もうほとんどのお客さんがですね、若大将が言わしゃっともよかばってん、結局は、昔からおった番頭さんの、そりばってんやっぱこんの、そりゃあもうげさぁ、げさっか好み、いうならば。
 やっぱ前の番頭さんが、そのばん昔からおる番頭さんが言うとが、やっぱこんの方がよかろう、これに決めっち必ずなる、というわけなんですよ。そこんにきはなかなか難しいとこじゃなと言うて話した事なんですけどね。だから、はあ自分じゃない、自分はこの、これがいいと思うけれども、げさっかつの方が好いてござる、ご主人、あのう、番頭さんもげさっか好みならですたい、だから信司さん、もういっちょ、このこれの方が似合わんばってんと思う方ば、こりゃよかですよっち言うと、まあこん番頭さんもこれば言いござるし、若大将もそう言うて頂くけん、んならもう自信を持ってこれに決めっちお客さんが言いなさんなら、そんなんがあんたはよかよっちいってから言うと、今からそげなごついっちょしましょうっち言うわけなんですよね。
 という風にそのいつも負けてはならんと思うから、これがいいと自分も言い張る、いや番頭さんはこちら、ところがお客さんは番頭さんの方を取るというわけなんですよ。いやこういう事では、例えばその、そのもう主人と番頭さんの間の中にですらよいものが生まれてこない。そういうようなことがです、非常にこの頃は、その勉強になるとこう言う。そんないろんな、それが実に深刻な問題を持ってきます。それこそお届けをする時に人相がかわっとるくらいな深刻な問題を持ってきます。
 けれども親先生、親先生が御取次いただくと、そうじゃんね信司さん、もうこの一言で私はもういつでもおかげ頂きますという事を聞いてね、私は思いました。本当私はみんなそうでしょうが。皆さんがお届けをされますとどういうお届けを何をされてん、そうじゃんのち私は必ず言うです。それはもうその人のところに私はいっぺん降りとるです。そうじゃんねっち。その人が泣く時に私も本当に涙がこぼれるです。その人と一緒に泣いたり笑うたりができる。その人の所に、この人にとってみりゃあやっぱそうもあろうとこう思う。そして私の信心で思うときに、それはそんなに泣く事でもなからなければそんなに深刻な顔をすることでもない。
 けれどもねと言うて、次に私は少し、私の信心をそこに持っていく。先生、私の信心、僕の信心はね、そのたびに成長しますと言うです。ね、ですから同じようなそのお届けじゃないっちゃん、お届けの内容が。どうどう回りじゃない。難儀な問題をお取次ぎ願う。親先生がそうじゃんねとこう、そうじゃんねって言われたら、もう、もうそれでおかげ頂くです。はあ、自分の事を神様が受けて下さった、聞いて下さった。というてまあ、思う。でそれをまあ、頂き終わり、聞き終わってから私が、けれどもねと次の今度はもう少し本当な信心、そのことも本当なんだけれど、もっと、それよりも少し本当の信心を与えることによって、そこん所に進んで行こうとする努力をする。
 そこにいうならば、まあいうなら芽が私は昨日の話し聞いとってから本当に目覚しい信心の成長だなあと自分で思うた。最近、今の言うように、神様の前に出とると、何処から沸いてくるか分からん涙が流れるという。御神前に一生、おす、お願いをさせて頂いておると、神様がいろいろな、いわゆる御心眼を持ってお知らせを下さる。はあ、有り難いなあ、それがいっちょどうでんこうでんお店の事でも何でも、買うという(?)売るということでもです、ね。
 いわゆる身凌ぎのできるような信心にならせて頂いたら有り難い、本当に一つ身凌ぎのできるような信心頂かにゃんなと言って、まあ昨日は話した事です。いわゆるおかげ信心、おかげ信心から始まって、神信心に推移していく、変わっていきよる。ね。難儀な問題の御取次を願う時にはおかげ頂く。けれども、そうじゃんねっと、それで、おかげを受けとる、もう心の中が。そしてその次に与えられる、けれどもねというところで、次の信心に飛躍していきよる。
 神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受けられると。ね、おかげ信心もこの一心を出すと、すぐにおかげが受けられると仰ってないです。それに、いつまでもおかげ信心、おかげ信心ではですね、なるほどこれじゃすぐにおかげが受けられない事が分かります。自分の心もさばけません。自分の信心の成長が自分で分かるくらいに成長していく信心の楽しみ、そこにです、次の37節にあります、「生きておる間は修行中じゃ。ちょうど、学者が年をとっても眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞ。」と仰る。
 そういう信心の成長のための信心修行なら、なるほど一生でも有り難いんだという事が分かる。もう修行をいとわない信心がそこから生まれる。信心の成長のためなら、おかげを頂く為の苦労じゃないです。信心を進めて行く。ね、信心が高められていくための修行なのである。それが信心修行。いかにも信心修行しよるごたるけど、おかげし、おかげ修行である。おかげを頂く為の修行、そして、だから信心が成長しない。だから一心をよくは出したところですぐにおかげが頂けるというおかげになってこない。
 皆さんでも信司君が申しますようにです、ね、体験、もうそのことで、はあ、ほんにそげんいやあ先生がお届けをすると必ず、そうじゃんのっちゅってから言わっしゃることをいっちょ思うてです、ね、だから本当にあの、そうじゃんのから先が、信心の成長していくきっかけを頂く訳なのですから、それから先の事を一つ本気で大事にするというか、その事を修行と思うて取り組ませていただくというような信心。そういう私は、一心を出すと、すぐにおかげが受けられるという事だとこう思う。堤さんの例をとりましたように、改式をした、もううちは金光様一本、それでおかげを受けられた。やはりそこには、一心、填まり、もうそういう一心がいつも、様々なお願いの場合に出てきとらん。
 そこんところから入ってですよ、それで次は、私は神信心もとこう仰るから、神信心にもその一心を出さなければいけない。様々な難儀な問題を取次願う。御取次を願うたらです、所謂次には御取次を頂いて帰らなければならないということ。様々な難儀な問題を御取次を願うのですから、次にはその御取次を今度は頂いて帰る。信司さんのそれが私は願う、そして頂いて帰るという事だと思うんですね。ああこういう生き方になれば、そ、そういう事に一心が定まればです、なるほどすぐにおかげが受けられるというおかげになる事を、こりゃ私も改めてそう思う。私がおかげを受けておるからである。
 昨夜の御理解にも申しましたが、問題を問題として、問題の性質をよく見て、と、まあ教団で言われますが、確かにそこなんです。実際には問題じゃあないのだ。私にとっては、例えば皆さんの問題は。けれどもこの人は問題にしておるのであるから、その問題を私はもう一つ一歩下がって、も一緒にその問題を検討する。そして次に一歩進んだ時には、もうこれは問題じゃあなかった事になってくる。だから、だんだん信心の成長のおかげということは、問題が問題じゃなくなってくるおかげを受けることなんだ。そういう信心からです、ね、そういうところに信心とはこうだと一心が定められる。しかも、次の37節にあります、「生きておる間は修行中じゃ。」と仰る。そういう信心の成長のための信心修行なら楽しい。尊い。
 それがなされる、またそれが、そうだと思い込ませていただくというか、ね、修行をいとわないというか、ね、そういう心が育ってくる。それを私は神信心だとこう思う。
 だからそういう神信心を持って、ただ今申しますような一心を出すとすぐにおかげが受けられるという事になるのじゃないでしょうか。ただこれを、36節をただすらっと読ませて頂いたら、成る程道理だ。ね、家を建てるのにも棟梁が何人もおったんでは、はか、物事相談にくれてはかどらず。一人に決めりゃあその一人が身を入れてやってくれるからなるほどそれがいいというように、その道理をここに説いてあるがです。
 最後のところの、ね、神信心もこの一心を出したと。金光様一本、金光様ファンになってしまうと、初めはその事でおかげを受けるけれども、次にはいわゆる神信心もと仰っておられるから、神信心もこの一心を出すとというところ。いわゆるおかげ信心じゃない、おかげを信ずる信心じゃない、信心を頂いて行くという事の信心。自分が確かに、次の、ね、今信司君の例を申しましたように、お取次を願って、ね、そうじゃんのと、いうところでもうおかげを受けて、けれども、こうやんのと次の御取次を頂く事になってくる時に、もう自分の信心はそこへ進んでおる。
 本当言うたら、ここじゃんのと、ここをわから、ここを分からせてもらう、ここを分からせて頂くということが信心。ね、いわゆる神信心になる。そこから、修行がある。ね、できる。そこに、私はすぐにおかげが受けられるというおかげが約束されるんだというふうに私は思います。お互いの神信心というものをです、いっぺん検討してみて、神信心ではなくておかげ信心に、とどまっておるような信心が、長年確かに金光様ファンではある。合楽ファンではある。けれども、ただファンというだけでは、おかげにゃならん。ね、神信心のほうがいわゆる一心が、神信心の一心がたたなければならん。自分ながら、信心が成長していくことが分かる信心にならなければならん。そこから生まれてくる一心、ね、不乱。
 そこには、やはり、身しのぎのできるような信心まで生まれて来る。これは不思議ですよ。ね、昨日信司君が申しておりますことでもそうです。一心にお願いをさせて頂いておると感動が湧いてくる。どっから湧いてくるか分からん有り難涙がこぼれる。ね、一心をそりゃあさせて頂いておる心に、様々な、どうでもすきっとせん問題があるけれども、神様がこうじゃないか、ああじゃないかと直接お知らせを下さるんです。とたんにこれがすっとするんです。こりゃ不思議、もう本当ですよ。
 ああそうじゃったってすぐ思えれるんです。もう心が闇だというのが、心がいっぺんに、ね、火が灯るようなおかげを頂きます。ね、そういう信心、いわゆる神信心を、いよ、目指さなきゃいけないということです。
   どうぞ。